手順書60本と生成AI——小さな測量事務所がISOの考え方で仕事を組み直した話
当事務所は、土地の境界を決める仕事をメインの業務としています。現地での測量、隣地の方との立会い、役所での調査と申請、法務局への登記、成果品の作成。一つの案件に、細かい工程が五十を超えてあります。
こういう仕事は、ベテランの頭の中で回っていくものです。「この案件は役所の回答待ち」「あの隣地には平日の昼はいない」。そういうことを、それぞれの担当者が覚えています。
ただ、それでは担当者が休めば止まります。新しく入った人は、何を聞けばいいかも分かりません。そして、あとから「あれはどうなったっけ」となったとき、記録がありません。
そこでこの秋、事務所の仕事の進め方を、約一か月かけて組み直しました。お手本にしたのは、製造業などで使われる品質管理の国際規格、ISO 9001 の考え方です。認証を取るためではありません。「やり方を文書にする」「やったことを記録に残す」「失敗から決まりを直す」という、あの考え方が、小さな事務所にこそ必要だと思ったからです。
やったことは4つ
難しいことはしていません。やったのは次の4つです。
1. やり方を全部、文字にした
「境界の立会いの前に隣地へ出す手紙は、事務所の定型を使う」「前の道路が私道のときに必要な、複数の留意事項」。こういう決まりを、一つずつ番号を付けて書きました。いま60本を超えています。どれも「誰が・いつ・何を」が書いてあります。
2. 案件ごとに「カルテ」を作った
病院のカルテと同じです。案件ごとに「いまどこまで進んでいるか」「次に何をするか」「どこで止まっているか」が、いつでも見られます。連絡先、役所への申請日、書類を返した日。こういうことも、誰かの頭の中ではなく、カルテにあります。
3. 「関門」を決めた
わたくしたちの業務には、土地家屋調査士の資格者でないとできない業務と、補助者でもできる業務があります。工程の中で、資格者が自分の目で確かめなければならない場所を3つ決め、「関門」と呼んでいます。
ここでは必ず止まって、資格者が確かめてから次に進みます。後からのやり直しが減るだけでなく、誰が作業しても、資格者の目を通らずに外に出るものがなくなります。
4. 失敗したら、決まりを直す
これが一番大事です。何かがうまくいかなかったとき、「次から気をつけよう」で終わらせず、決まりのどこが足りなかったかを書いて、決まりを直します。
先月、カルテの記録が一部消えるという失敗がありました。その日のうちに「書く前に読み直す」「書いたあとに消えていないか確かめる」という決まりが1本増えました。
この4つを回すために、生成AI(Claude)を使っています。スタッフが「これから立会に行きます。何かある?」と一言かけると、60本の決まりの中から、その場面に関係するものだけを拾って返してくれます。決まりを全部覚える必要がないので、入ったばかりの人でも、ベテランと同じ確かめ方ができます。
実際に、こんなことが起きています
先日、役所から「お送りいただいた図面に修正してほしい点がある」というメールが、担当者個人のアドレスに届きました。以前なら、担当者が言わない限り、代表の私は知りようがありませんでした。いまは事務所のメールの写しが自動で集まり、翌朝には案件ごとに整理されて、私の手元に届きます。
もう一つ。返却期日のある書類は、期日内にお返しすると決めています。カルテに返却期日が入っているので、期日が近づくと AI が知らせてくれます。「忘れていた」が起きにくくなりました。
ISO 9001 と比べると
ISO 9001 が求めることを、あえて平たい言葉にすると「決めたとおりにやり、やったことを残し、失敗から直す」です。
| ISO 9001 が求めること | 当事務所では |
|---|---|
| 手順を文書にする | 60本超の手順書。誰が・いつ・何を |
| 記録を残す | 案件ごとのカルテと経過の記録。誰がいつ書いたかも残る |
| 検査のポイントを決める | 3つの関門 |
| 不具合から是正する | 失敗が起きた日に手順書を直す。直した理由も残す |
| 役割をはっきりさせる | 案件は複数名で持つ。測量・作図・登記・チェックの役割を文字で決めた |
認証を取っているわけではありません。ただ、考え方としては同じものを、小さな事務所の大きさで回しています。
まだできていないこと
正直に書きます。ISO の考え方のうち、まだないものがあります。
- 内部監査:決めたとおりに動いているかを、定期的に点検する場。いまは代表の目だけです
- 月に一度の振り返り:漏れが何件あったか、どの決まりが効いたかを数字で見る場
- 数値の目標:「書類の返却は期日内 100%」のような、測れる目標
この3つは、記録がたまってきたことで、ようやく作れる段階になりました。月に一度、AI に「先月の漏れと遅れ」をまとめてもらうところから始めるつもりです。
ご依頼いただく方、これから一緒に働く方へ
ご依頼いただく方にとっては、「担当者が休んでも案件が止まらない」「『あれはどうなった』にすぐ答えられる」事務所になる、ということです。
これから一緒に働く方にとっては、「覚えることが少ない」事務所です。決まりは文字になっていて、聞けば AI が答えます。覚えるのは、「始める前に一言聞く」ことだけです。この秋に入ったスタッフは、初日からその形で仕事を始めています。
境界を決める仕事は、最後は人が現地に立って、隣の方と話して決めるものです。そこは変わりません。変えたのは、その前後の「覚えておく」「忘れないようにする」という部分を、人の記憶から仕組みに移したことだけです。
稼働して思うこと
大げさに聞こえるかもしれませんが、当事務所の規模における業務効率化のプラットフォームとしては、最強の環境が整ったと自負しています。大きな組織の仕組みを真似たわけではありません。10人規模の事務所が、無理なく回せて、かつ抜けを防げる形。その答えに、ひとまずたどり着いたという実感があります。
この仕組みを動かし始めてから、変わったことが3つあります。業務の漏れがなくなったこと。「あれを忘れていないか」という、目に見えないストレスが軽くなったこと。そして何より、業務の効率が劇的に上がったことです。
生成 AI と向き合って思うのは、「何ができるか」はこちらの想像力次第だということです。最初は「メールを読んでくれればいい」くらいのつもりでした。いまは毎朝、前の日のメールを案件ごとに整理し、期限を見張り、新人の質問に答えています。思いついたことを一つずつ試すたびに、できることが増えていきます。これからもっと面白くなると思っています。
